#003 愛は感情ではない、という違和感について
- Mee

- 2025年12月19日
- 読了時間: 3分
私は昔から、
「愛は感情だ」と聞くたびに、
どこか小さな違和感を覚えてきました。
愛は、嬉しいとか、切ないとか、
そういう気持ちの名前なのだと
説明されることに、
どうしても納得できなかったのです。
もちろん、
愛には感情が伴います。
喜びも、不安も、怒りも、悲しみも。
けれど、
それらが消えたとき、
愛も消えてしまうのだとしたら、
それはあまりにも心許ない。
私は、
感情が揺れているときでも、
感情が枯れているときでも、
確かにそこに在り続ける
「何か」を、何度も感じてきました。
感情は変わる。けれど、愛は残る
感情は、状況によって変わります。
体調によっても、
睡眠によっても、
言葉ひとつで、簡単に揺れます。
感情は、
人間の大切なセンサーです。
でも、舵ではありません。
もし愛が感情なら、
疲れている日は愛せなくなるし、
余裕のない日は関係を保てなくなる。
けれど現実には、
感情が追いつかない日にも、
人は誰かを守り、
関係を引き受け、
生活を続けています。
そこにあるのは、
感情とは別の層で働いている力です。
愛は「見る力」だと思う
私にとって愛とは、
何かを「感じる」ことよりも、
何かを「どう見るか」に近い。
相手を、
役割や評価や便利さで切り分けず、
関係の中にいる存在として見ること。
自分自身を、
できている部分と
できていない部分に分解せず、
ひとつの流れとして引き受けること。
それは、
優しさというより、
認識の姿勢です。
世界を、
断片ではなく、
つながりとして捉えようとする態度。
私はそれを、
愛と呼んでいます。
愛が欠けると、世界は壊れやすくなる
愛が失われた状態とは、
冷たい状態ではありません。
むしろ、
効率的で、正しくて、
一見すると合理的です。
役に立つか、立たないか。
正しいか、間違っているか。
成功か、失敗か。
その基準だけで世界を見ると、
判断は速くなります。
けれど、
その世界はとても壊れやすい。
少しの失敗で、
人は自分を切り捨ててしまう。
少しの違いで、
他者を排除してしまう。
愛とは、
その切り捨てを止める力です。
なぜ、愛を知として扱いたいのか
愛を感情のままにしておくと、
「ある人」と「ない人」に分かれてしまいます。
優しい人。
そうでない人。
愛せる人。
愛せない人。
けれど、
愛を知として扱うなら、
それは誰にでも育て直せるものになります。
どう見るか。
どこに立つか。
何を切り捨てずにいようとするか。
それらは、
訓練できる。
学び直せる。
実践できる。
だから私は、
愛を学問として扱いたいと思いました。
愛は、抽象ではなく、日常に現れる
愛は、
特別な瞬間にだけ現れるものではありません。
朝、起きること。
食事を用意すること。
同じ問いを、何度も聞かれること。
思い通りに進まない一日を、終えること。
そうした生活の中で、
それでも関係を続けるという選択。
そこに、
感情とは別の層で働いているものがある。
私はそれを、
愛だと感じています。
この違和感から、愛智学は始まった
愛は感情ではない。
でも、理屈でもない。
そのどちらにも回収されない違和感が、
私の中にずっとありました。
愛智学は、
その違和感を
無理に説明しないために生まれました。
切り捨てず、
急がず、
生活の中で確かめ続けるための枠組みです。
このJournalも、
その実験のひとつです。